昭和51年09月01日 月次祭



 私がたいした信心も出来ませんのに、段々この様にまぁ年勝り代勝りに、おかげを頂いていく土台が、この様にして出来ておると言う事は、どこにどうと取り柄もない私に、神様が着眼して下さったのは、先ほど前講に幹三郎がお話を申しておりましたが、「親思う心に勝る親心。」その親心に触れた時に心が弾んで来る。この親に心配を掛けてはならない苦労を掛けてはならない、もうそれは命がけ命を掛けてもこの親に喜んで貰わなければならないという思いが、私は強かったところにあると思うんです。
 そしてその信心が、段々親の内容が天地の親神様のお心が、少しづつ分かるようになり、親神様のお心が分かるようになったら、親神様の心に何とかして添わせて頂かなければならない、という切実心が段々育ってきたからだと思います。だから親を思う一念、それが御道の信心の、まぁおかげを頂いていく秘訣だと私は思います。今日あちらの朝倉郡の方から参ってきます、平田という親子がございます。熱心に参ってきます。
 今朝方からお夢を頂いた。そしてそのお夢をお届けするんです。ここに親先生がお座りになっておられる。沢山の人がお取次ぎを願って、本当に有り難い親先生だなぁと思って、ちょっとこう顔を上げてみたところが、その親先生の鼻がもう非常に低かったというところであった。私はそのあんまり高くはないばってんですね、はっははその御心眼に頂いたのは、いよいよ鼻がもう本当にびっちゃげたように低かったち言う。
 けれどもその後ろに、お父さんという先生がお座りになっておって、手をこの様にかざしてその、お取次ぎを下さっておられるところを頂いた。こういう意味が皆さん分かるでしょうか。最近合楽の信心の傾向の中に、神様のおかばいを頂いてという、親先生の信心のおかばいによって、私の今日があり私がおかげを受けておるという、このおかばいという言葉をしきりに使われます。
 昨日月末御礼会に、もう今までかってない、こういう素晴らしい親和会はないなと言うてお話を聞かせてもらった。また今朝からもお話させてもらった事でございますけれども、本当に親孝行な子供ばっかりが集まって、しかもここにこう輪をかいて、三十何名でしたけれど、丸くお広前一杯になります。こう輪をかきまして。そしてどういう信心どういう心掛けにならせて頂いたら、親神様がお喜び頂けれる信心になるだろうかと。もうとにかくお役に立ちたい立ちたいの、一念でというお話でございました。
 今度宮崎さんが死ぬか生きるかという大病をなさって、手術をなさる。いわば手術台に上る時に、ひょっとするとこれはもうこれは死刑台かも分からない。麻酔が覚めた時に覚めた時には、もう自分というものは無いかも分からない。そういうだんだん深い眠りというですかその麻酔が効いていく、その間自分の心の中に祈り願い続けて来た事は、永年信心をさせて頂いたけれども、神様に喜んで頂く、神様の心に添い奉りたいと、いう思いが無かった事を詫びて。
 もしこれから私がこの生を頂いたならば、神様に喜んで頂けれる一念を燃やし、神様に喜んで頂く信心にならせて頂きますと、もう祈り続けながら分からなくなり、もう大変な順調な手術のおかげを頂いて、退院のおかげを頂いたと言うお話でした。もう皆んなが本当に拍手喝采致しました。もう本当に通る所を通らなければ分からないねと言った事ですけれども、と言うてお互いが皆んなほんなら、そういう死刑台とも分からん手術台の上に、その一遍そこを通らなければ、信心が分からんと言う事であってはなりません。
 ここではその信心をいうならば、皆さんに聞いて頂くと言う事。こういう生き方こういうあり方、しかも信心を目指すならば、楽しゅうしかも嬉しゅう出来るという信心。だから信心を目指さなければならない。信心が分かると言う事は、私はそういう止むにやまれん、私の場合は肉親の親に孝行したいの一念から、信心が少し段々分からせて頂くようになったら、天地の親神様のお心に沿いたい。いわばそのお心が分かって来る。分かって来れば、もう分かって来た事を行じなければ、それは人が笑ってもね。
 そしっても悪口言うてもあれは人非人だと言われても、やはりそれを貫かせて頂いたと言うところに、私は今日の合楽があると思うんです。最近今合楽の傾向の中にです、信心も出来ませんのに、かくおかげを頂いてというおかげを感じますが。その信心も出来ませんのにと言うその思いだけではなくて、けれどもお役には立ちたい。お役に立ちたいという一念は益々燃えてくる。そこに神様がかぼうて下さる働きが生まれてくる。それがほんならここの信者さんの上にも、そういう傾向がある訳ですたい。
 人間だからこの位な事はもう当たり前です。又は本当に先ほど幹三郎が話しておりましたように、自分というものが分かれば分かる程です、もうそれこそ自分の言うておる事、しておる事ね思うたら、神様のお心に叶わない言ばっかり。もう自分と言う様なものはもうつまらんのではなかろうかと思うくらい。けれども親の思いに添いたい。この一念だけは燃えてきた。最近朝の彼にとってはお努めでございます。
 朝私と一緒に控えに出てくる、もう私は早くここへ来て座っていると、もう四時ギリギリに駆け込んでくると言った様な事が、この頃からずうっと続いておりましたけれども。最近ここもう十四、五日か、二十日にもなりましょうか。私があのうまぁだ洗顔しておるころにやってまいります。そして私のこの奉仕着を付ける用意をして、そしてここへ出てまいります。だからその親はこうあってくれこうしてくれとは言わんけれども、親の思いが分かってくる。それが行の上に今されておる。
 外の事は何にも出来ないけれども、せめて親の思いに添いたいという思いを、そのような形で現しておるというところに、あの幹三郎の話を聞いて、私もはぁ成程お話というものは口だけではいけんな、自分の行の上に現して話さなきゃいけないなと、しみじみ思うた。それは例えどこに親の目に余る様な事をしておってもです。親の思いに添いたいと言う一念は、いよいよ強うなって来るという信心に、私はおかばいが始まる。
 いや私共の生涯と言うものは、そういうもんではなかろうかと思います。どんなに水も漏らさん信心が出来ました致しましたと言うても、神様の目からご覧になれば目の粗い言であろう。又お心に叶わぬ事も沢山ある言であろうけれども、けれどもたった一つお役に立ちたい立ちたいという、一念を燃やし続けるところにです私が現実感じております。もう本当に心も出来ませぬのに、神様がおかばいを下さって顔を立てて下さっておかげが頂けて来る。おかげの中に過ごさせて頂いておると言う事になります。
 今月の焦点を、私は今朝から皆さんに、申しましょうかと思いましたけれども、その今月の焦点と言う所だけは申しませんでした。焦点の前提を聞いて頂いた。今日は「信心なければ世界が闇なり。カンテラの中に油が一杯あっても、芯がなからなければ火は灯らない。信心なければ世界は闇だ。」と言うあの御理解に基づいて、とにかく信心の光を持っていなければ私の家すらが真っ暗です。勿論自分自身の心の中に、自分の都合の良い時だけはという時は、ちょうど昼間のような状態じゃないでしょうか。
 ひとたび段々薄暗くなってくる、真っ暗になって来ると言う事になって来ると、いよいよ手探りで何をどうして良いやら、分からないと言う様な状態になってしまっては、信心の値打ちがない。信心は光だ力を受けると言う事は、光を受ける事だとさえ言われるのです。先ず自分の心の中に光を頂かなければならない。その光を頂くと言う事のために、お互い信心修行させて頂く。そしてそういう光を先月から、先月にかけて太くなろう、そして豊かにならせて頂こうと、言う様々な稽古をさせて頂いた。
 言うならばその大きな太い心で、しかもその心の中に大きな光を頂いて、そしてお役に立ちたいという一念。今日私御神前に出ましたら、御大祭の時にあの蕎麦のお供えを、ここでは必ず致しますですね。お蕎麦をこうピラミッド型に盛って、麻でこう結わえてあるんです。その結わえてこう上にこうね化粧麻が掛けてあります。そのピラミッド型にしたそのお蕎麦が、ここでから結びに結ばれただけこれを上に、あの化粧麻と申しますかね、にするばっかり。
 それが出来なければお三宝の上には、まだ乗せられないと言う所を頂いた。ここではお蕎麦というのは、もうおかげが傍だという時だと言われております。神様がその気になってござる、おかげをやろうと思うてござる。そこで神様が必ずそれをお三宝に乗せる前に、これを見事ないわば化粧麻を掛けて下さる。初めてお三宝の上に乗らせてもらう。これはもう絶対ですから皆さんが、ここんところに失敗をしてはならない。
 これほど信心するのにどうして、こう言う事が起こって来たであろうかと、言うたらもう信心は留まっておる。これはまぁだ私の信心が足りんのだと、思うて信心をしていけば、そこからおかげが受けられる。教祖様は信心に身が入ってくると、言うなら本当のおかげを頂く前には、必ずおためしがありますぞと、もう御晩年のころはこれを参ってくる氏子、一人ひとりにお伝えになったと言う事です。信心に身が入って来ると、お試しがありますぞと。
 もう本当におかげは傍であるのにも拘らず、自分の思う様にならなかったからと言うて、暗い心になったり、信心がぐずぐずしておったんでは、おかげは傍に見ながらおかげを受ける事が出来ない。光を受けるというのはそういう時に、ここを押し切って行くところに光があるのです。これほど信心するのにという時に、それを合掌して受けて修行として受けて、受け抜いたところにおかげはありますように。その私はお試しのところで、いわばどうどう廻りをしておる人が沢山あるように思う。
 そういういうならば信心のです、これはひとつのもう決まりのようなもんです。信心しておかげを受けると言うても、信心してお徳を受けると言う事は尚更の事。そういう言うならば節を見事に乗越えた時に力がついて行く、光がいよいよ大きくなって行くというのが、信心の進め方であります。ですからただ目の前に、自分の願いが成就する言だけが出来ればと、言った様な信心からはです、自分の思う様な事になってこんと、もうそこに心が暗くなったり、信心してもと言う様な弱い心になります。
 そこでですね初めに申します、とにかく親に孝行したいの一念が燃えておる。本当な信心が分かりたいの一念に燃えておる。お役に立ちたい立ちたいという大きな願いを持つ。こういう大きな願いをもっておるんだから、このくらいな修行はもう当然の事として、有り難く受け抜いていけれるというのであります。だから大きな願いを持たなければいけない事が分かります。私の場合おかげを頂いて、段々それが親の思いに添いたいの一念が、段々その親が変わってきた。
 そして天地の親神様の心が分かれば分かるほど、親神様のお心に添い奉りたい、御神願が成就に私にかけられる、神様の願いが成就致します様にと言う、大きな願いを持たせてもらった。そういう大きな願いを持っておるのですから、このくらいな修行は当たり前という生き方になってまいりますから、増々おかげを受けていくと言う事になる。それでほんなら私の信心が、完璧に出来ていっておるかと言うとそうではない。最近はいよいよ、この鼻が低い鼻がいよいよびっちゃげてきよる。
 鼻が高いというのはありゃ高慢ちきとかね。あれは鼻高々としてとか自慢するときのです。私はこげな信心したらこげなおかげを頂いたというのが、ありゃ鼻高々です。もう本当になるほど、一生懸命の信心をさせて頂きましたけれども、どこにお粗末が御無礼やら御機感に叶わぬ事どもの、多かった言かと言う事が分かって参りますとです。もうただ相すまんとお詫びをする以外にはありません。そういう信心の出来ない私ですけれども、お役に立ちたいという一念を、神様がお取り上げ下さっておかげを下さる。
 そのおかげがこういう信心したからではなくて、信心も出来んのにこういう御用に使うて頂いてかたじけない、勿体ないというその心がです。いよいよ私は神様の心に叶うのだと思います。後ろの方にお父さんが座っておられたと、低い鼻の先生が座ってござる。その後ろにお父さんが座ってござる。お父さん後ろで手をこうやってかざしてござる。これは一つ足りないと言う事だと思うのです。あぁあれは足りない。昔そんなふうに言ったでしょう。これは私は何時も自分の心のいうならば不愚者です。
 目が見えとらん証拠に、お礼を言わねばならないような事に腹を立てたり、もうそれこそ耳を傾けると言う事をこの頃頂きましたが、耳を傾けるどころか毎日毎日おかげの頂けれる、お徳の頂けれる話を頂いても、耳をかそうともしない守ろうともしないでは、もう信心のツンボと同じ事、ですからもう本当に心の不愚者である私の自覚。足りない私というそこからです。お父さんと言う事は、親と言う事もありましょうけれども、天地の親神様の働きがここに現れておるから。
 沢山の人が日々おかげを頂いておると言う事になるのです。これはもう私の生涯をかけて、いよいよこの思いが募っていく事でありましょう。ですから今月の焦点は、皆さんお役に立ちたいという一念を、いよいよ燃やそうというのが今月の焦点。先々月から先月にかけて、いよいよ豊かに豊かになった心でいよいよね、お役に立ちたいという一念を燃やすとです。例えばそこには間違うた事があっておってもね。先ほど幹三郎が申しておりましたように、けれども親の思いには添いたい。
 その一念で彼が修行を続けるならばです。もうこの人には何をやっても惜しくないような思いがするのじゃないでしょうかね、親として。だからお役に立ちたいという一念を、私は作る事燃やす事、そこからね神様がおかばい下さる、はっきりした体験が生まれて来る。信心も出来んのに神様がどうしてこんなおかげを下さるだろうかと。昨日先日、四、五日前でしたか、秋永先生のお導きでご夫婦の方が参って見えた。もう商売がいよいよ不振。ところがお参りしたときだけは商いがある。
 今朝からも朝の御祈念に参ってきてあった。昨日も夫婦で参ってきておる。もう全然商売がない。ところがもう久しぶりで昨日は売り上げが、相当な売り上げになったという、お礼のお届けがあった。そういう例えばおかげをです。頂き又は見せて頂きながら、分からなければならないところはです、親に孝行したいの一念。親神様の心が分かりたい。分かれば分かるほど親の心に添い奉りたい。その一念に燃えてくる時に、そこに多少お粗末御無礼があって、目に余るような事があってもです。
 その一念に神様がほだされて、そしておかげを下さる。そういうおかげを私は私自身は頂いておると思う。そこにおかばいを頂いておる私と言う事になるから、いよいよ相すまん勿体ないという、謙虚のいうならば鼻がいよいよ低うなって行くと言う事ではないでしょうか。もう鼻が無くなるくらいにひとつ、あのおかげを頂かなければならんと思うです。これならば間違いのない神様のおかばいを受ける事が出来ます。こういう信心したからこういうおかげを頂いた。
 どういう風に信心してみても、後で考えてみてこれで良かったと言う様な、信心が出来る筈はないです。けれども出来んなりにもです。神様がその心の底にある心。お役に立ちたい親孝行がしたい、神様のお心に添い奉りたい、お役に立ちたいの一念が段々育ってまいります時にです、神様がおかげを下さらん筈がない。そのおかげは実感して、神様おかばいの中に、生まれてくるおかげである事がまた実感できる。そこに有り難い勿体ない、言うならば恐れ入った生活が出来て来ると言う事になるのです。
 今月はいよいよ総会、それから婦人部では婦人大会が、思い立たれてあります。それから教祖生誕祭。十月の御大祭を控えてひとつの修行月。いよいよお役に立ちたいの一念を燃やさせてもらい、御本部参拝の事も今月中に締め切られる事でございますから、どうぞもうご参拝は絶対のものとして、お繰り合わせを頂く事を今から願うていかなければなりません。そして十月の御本部参拝、そして合楽教会の秋の御大祭に。
 いよいよ神様のお心に叶いまつると言う事は出来んにしても、その神様のお心に添いたいの一念、お役に立ちたいの一念を燃やして、信心をさせて頂いたら、神様が思いもかけないおかげを下さる事を私は信じます。その思いもかけないそのおかげこそがです。いよいよお役に立っていく土台になるのでございますから、先ずおかげを受けなければです。ただおかげを頂きたいのではいかん。お役に立ちたいからおかげを頂きたいと言う事になりますですね。
   どうぞ。